六人の武将と那古野SIX HEROES AND NAGONO
那古野から、名古屋へ。
信長14歳、秀吉11歳、家康6歳。
1547年、3人の少年がここ那古野で出会った。
「岡崎殿は東、わしは西を頂戴する」。信長と家康の約束は終生守られた。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで勝利した家康は、3年後に征夷大将軍に就任。数々の苦難を乗り越えてきた家康が、初めて自由を手にした瞬間である。家康が天下人になって取り組んだことは2つ。それは、信玄、信長、秀吉から学んだ最終勝者ならではの渾身の策であった。ひとつは信長も秀吉も失敗した「世襲制」の確立。もうひとつは二度と戦いを起こさないための徹底した「意識改革」であった。下克上を全否定し「質素倹約」、「文武両道」「質実剛健」の思想を植え付けた。
秀吉と清正の全てがわかる生誕地・中村公園
地下鉄「中村公園」駅で下車し、日本一の高さの大鳥居をくぐると、そこは豊臣秀吉を祀る豊国神社の参道だ。緑豊かな中村公園内には人々の参拝が絶えない豊国神社の他にも、秀吉の生誕碑や秀吉ゆかりの常泉寺がある。近くの妙行寺は、加藤清正が名古屋城築城の際に、その余材を使って再建した寺。公園内の「名古屋秀吉清正記念館」は、秀吉と清正に関する資料を収集し展示する歴史資料館。定期的に、趣向を凝らした特別展を開催している。
400年前、徳川家康の「名古屋遷府令」により、名古屋が誕生した。
1609年、ほぼ天下を手中に収めた徳川家康は、「名古屋遷府令」を発布。翌1610年から清須越(清須から名古屋へ移動)が行われ、名古屋城の築城がはじまる。信長の那古野から家康の名古屋に変わった瞬間である。家康は幼少時代に人質として過ごしており、その間に 若き信長と出会った可能性が高い。家康にとっても名古屋は、自分の運命を変えた想い出の土地だったに違いない。
前田利家、加藤清正、前田慶次、天下に名を轟かせた那古野の武将たち。
名古屋は有名武将の宝庫である。秀吉と清正は中村公園(中村区)、前田利家と慶次、池田恒興は荒子(中川区)、柴田勝家は上社(名東区)、丹羽長秀、佐々成政、佐久間盛政 も那古野武士だ。
利家、慶次の発祥地と言われる荒子界隈では、荒子観音、荒子城址など数多くの史跡が残されており、利家が発展させた金沢市尾張町と荒子町は、今でも文化交流を続けている。