加藤清正編EPISODE KIYOMASA KATO
生誕から名古屋城築城まで、清正と名古屋は関わり深い
戦国最強の武将は?と問われた際、生涯無傷の本多忠勝と、この加藤清正の名が挙げられる。それほどの猛将として知られ、江戸時代は戦いの神として全国で祀られた。その一方で、豊臣秀吉に忠義を尽くし、遺児・秀頼を終生守り通した。築城名人としても名を馳せた清正の功績を辿ってみよう。
清正がふるさと名古屋に錦を飾った、「妙行寺(加藤清正生誕地)」
慶長15年(1610年)、徳川家康の命に従い、加藤清正は諸大名と共に名古屋城築城に参加した。当時、築城名人として知られていた清正は、わずか3ヶ月で天守閣の石垣を積み上げている。妙行寺は、築城の際の余材と普請小屋を貰いうけて、先祖と両親の菩提をとむらう為に、自分の生誕地に建立した。清正公堂に安置せる御肖像は、肥後本妙寺第三世日遥上人の作と言われている。
妙行寺/地下鉄「中村公園」下車10分
名古屋城の「石曳像」が物語る、当代一の築城技術。
清正は名古屋城築城のために徳川家康に呼ばれ、主に石垣の建築を担当した。本丸東門桝形石垣中の「清正石」、大天守石垣の東北隅北面に残る「加藤肥後守内小代下総」の刻印、二の丸の「清正公石曳きの像」など。後に熊本の治水に活かされた石積み技術を見ることができる。
名古屋城/地下鉄「市役所」下車5分
万松寺の跡地に佇む「桜天神社」は、清正の活動拠点だった。
加藤清正が、名古屋城築城の際、陣を置き名古屋城へ通っていたという「桜天神社」。名古屋三大天神社のひとつで「桜通」沿いの丸の内にひっそり佇む。名古屋開府以前、ここには有名な万松寺(信長の父・信秀の菩提寺)があったが、菅原道真を崇拝した信秀は、那古野城内に天神社を鎮座、その後、万松寺に移した。名古屋開府時に万松寺は大須に移ったが、桜天神社はその場に残った。「桜通」という名前は、桜天神社から名付けられており、尾張名所図会を見ると、ここが桜の名所であったかとが分かる。
桜天神社/地下鉄「丸の内」下車5分
戦場で怖れられた、加藤清正のトレードマーク「長烏帽子形兜」
この兜が加藤清正のトレードマーク。鉄に見えるが、実は和紙を重ね銀箔を押したもの。高さは75cm。写真の兜は、清正が朝鮮戦役の際に用い、蔚山の合戦で苦戦した時に、九鬼広隆が譲り受け、清正の身替りとなって奮戦したという。以後、同家に伝来し、後に紀州徳川家に献上され、昭和8年の紀州徳川家の売り立てで尾張徳川家が購入した。
- 収蔵品は常時展示しているわけではありません。
徳川美術館/なごや観光ルートバス「メーグル」「徳川園・徳川美術館・蓬左文庫」下車すぐ、JR「大曽根」下車10分
加藤清正聖地巡礼マップPILGRIMAGE MAP
- 収蔵品は常時展示しているわけではありません。