六大武将ゆかりの名古屋 武将の聖地を歩く

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13年にも及ぶ人質生活から最後に勝利したのは家康だった

熱田での織田家人質に始まり、戦での度重なる負け、身内の不幸など忍耐に忍耐を重ねた家康が、最後に手にした物は?それは、264年間続く江戸幕府という勝利であった。最終勝者となった家康の波瀾万丈な人生を感じ、最後に華咲いた豪華な武家文化にも触れてみよう。

  • 6歳の松平竹千代(家康)が1年間幽閉されていた、熱田「家康幼時幽居地」 6歳の松平竹千代(家康)が1年間幽閉されていた、熱田「家康幼時幽居地」

    徳川家康は、6歳〜19歳まで、人質として、那古野(名古屋市)と駿河(静岡市)で過ごした。まず6歳の竹千代(家康)は、人質として駿河・今川方に移動する途中、義理の祖父の裏切りに合い、敵方の織田信秀(信長の父)に銭百貫で売り飛ばされた。竹千代は当初、熱田の豪商・加藤家に幽閉されていた。その跡地が、ここ「家康幼児幽居地」である。この後、織田家の菩提寺・万松寺に移され、ここで織田信長と対面したと思われる。

    熱田「家康幼時幽居地」/地下鉄名城線「伝馬町」下車5分

  • 性格とは異なり意外とド派手だった、徳川家康の甲冑「熊毛植黒糸威具足」

    「桶狭間の戦いの際に着用した全身金ピカの「金陀美具足」や、西洋甲冑を模した「南蛮胴具足」など、徳川家康の甲冑は意外と派手な物が多い。この熊毛植黒糸威具足も、その一つ。桐製黒漆の大きな水牛の角を象った立物が兜の両側に高く突き出し、胴・小手・草摺など総体に熊の毛を植え付けている。家康が、好んで何度も着用したと伝わり、家康の変身願望がうかがえる。当時に甲冑は、防護服であり、ファッションでもあった。
    ※収蔵品は常時展示しているわけではありません。

    徳川美術館/なごや観光ルートバス「メーグル」「徳川園・徳川美術館・蓬左文庫」下車すぐ、JR「大曽根」下車10分
  • 千代姫の花嫁道具「国宝 初音の調度」は、婚礼調度の頂点を極めた作品 千代姫の花嫁道具「国宝 初音の調度」は、婚礼調度の頂点を極めた作品

    徳川3代将軍家光が、娘の花嫁度道具として、天才蒔絵師・幸阿弥弥長に作らせた蒔絵工芸の最高傑作。調度品60点のうち47点が『源氏物語初音の帖』の和歌を意匠としているため、『初音の調度』と呼ばれている。細部には、和歌の文字が画中に見え隠れするように金銀の彫刻の文字で散らされており、全体で一つの物語を表現している。武家文化の「雅」を代表する逸品として、国宝に指定されている。
    ※収蔵品は常時展示しているわけではありません。

    徳川美術館/なごや観光ルートバス「メーグル」「徳川園・徳川美術館・蓬左文庫」下車すぐ、JR「大曽根」下車10分
  • 名古屋城の「西南隅櫓(未申櫓)」から家康が見たモノは? 名古屋城の「西南隅櫓(未申櫓)」から家康が見たモノは?

    慶長20年/元和元年(1615年)。家康の9男で尾張藩初代藩主・徳川義直と、浅野幸長の娘・春姫の婚儀が、本丸御殿で行なわれた。結婚式の当日、家康は熱田から本町通りを通って名古屋城に入城してきた花嫁道中を、西南隅櫓から見物した、と『那古屋府城志』に記されている。その花嫁道中は、調度品は長持300棹、先駆の中間100人、春姫の輿、茶道の面々からお供の諸士と、その行列は熱田から名古屋城まで延々と続いていたそうで、この花嫁道中が名古屋「派手婚」のルーツと言われている。

    名古屋城/地下鉄「市役所」下車5分
「名古屋城本丸御殿」 現在、復元が進められている名古屋城本丸御殿。その復元は、建物の素晴らしさという観点からはもちろん、伝統技術や技法の伝承に於いても極めて意義がある。図面を描いた棟梁の中井正清は、作品のほとんどが国宝か世界遺産に指定されており、室内の障壁画は日本最大の画家集団である「狩野派」の作である。まさに当時最高の技術を集約しており、この時の建築技術は、尾張伝統産業の源流になったと言われている。2010年10月、玄関の一部を公開し2017年度に完成予定。

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